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yamazaki/just

MMA


これまでの「正義」の話を一方的にしよう


正義とは何であろうか。これの答えは無数に存在する。
人間存在が一人として同じ者が存在しない様に、各々の正義もまた同じ物が存在し得ない。
揺りかごに眠る赤子から、息を引き取る間際の老人に到るまで、全ては自由意志を持つ存在である。
自らの選択により自らの生を歩み、自ずと観念を感じ取ることで、自己世界を形成する。
自己の形成の際に生じる世界との乖離こそが、各々の性格である。

個々の考え方には幾通りかの道筋がある。
直線的に物事を考えるか、多次元的にそうするか、或いは次元を超越した何かによって。
それらを介することで、人格世界の相対的な感覚は加速する。
他人との邂逅は、幾通りの道筋のねじれの位置にあると言える。
ガラス越しのコミュニケーションにより、本質的に触れ合うことも、分かり合うことも無い。
我々は、真に他者を理解することは、決して無い。

性格形成の世界に於ける他者の介入は、字面通りに受け取ってはならない。
他者の思念により道筋は逸れるかもしれない。
だが、その考えはまやかしでしかないのだ。
他者の意識と思しき物は、自身の精神世界を介することで生まれた意見でしかない。
真なる他では無く、真なる自でしか無い。
我々は、我々自身の変換回路によって我々の意識を変革させていく。
意識という大樹を変革させる事で、末端の諸機能にも変革が生じる。
変革により末端が枯れ果て、根が腐り落ちる事もあるだろう。
然し、それを修正することも又、自己の意識変革に頼らなければならないのだ。

概念は末端の諸機能である。
自己が社会を、世界を見る為に必要なパラメータなのだ。
我々が形成した人格という家には、ネットワーク回線は繋がっていない。
自己と世界を繋ぐ回線は、道徳である。
自己と他者の境界線は、倫理である。
自と他の介在を制するのが、正義である。

我々は常に社会に於いては孤独である。
これは孤独に酔い痴れた馬鹿者の言葉でも、精神に疵を負った病人の言葉でもない。
古より、自他の事象を人間存在は解明しようとしてきた。
然し、それは千差万別な事象でしか無いのだ。国、言葉、地域、性別、時間によって。
概念とは、個人がコンバートした物でしか無い為、情報としては不確かなのだ。

ここで、最初の話に戻ろう。
正義とは何か? それは、悪を裁く法律でも、他者を罰する為の物でもない。
正義とは、自己を他者と区別し、排除する為の防衛機構なのだ。
この場合の自己は、厳密な意味での自己で無くても良い。
同じコミュニティに在する存在を、広義の意味での自己と取っても構わない。
コミュニティ内の存在が他者を排する為に、正義を振りかざすのだ。

それは、各々個人により違う姿を見せる。
正義とは神であり、その姿は不定形なのだ。
フラクタルな姿を見せ、言葉にディストーションを掛ける。
唯一の神が存在しないのと同じく、正義とは唯一では無い概念なのだ。
我々は、各々の正義によって各々を律する。

然し、それは正義なのだろうか。
自己にとっては正義でも、他者にとっては断罪である可能性もある。
我々は、真に理解し合うことは無い。
概念を創り出す人間存在は不確かで、不平等で、不明瞭な欠陥品でしか無い。
それを、概念という言葉で生み出した塊によって社会を形成している。
正義とは、人間存在その物の傲慢さでしか無い。


これが計算機と何の関係があるかだって?
HAHAHA、トムよ、考えるのだ。
人間は利用出来る物は全て利用するのだ。
そう、我々が今使っている物は何だい?
計算機(及びネットワークに接続された機器)だ。
計算機も概念の一つでしか無かったんだよ!!
な、なんだってー!(AA略

yamazaki/just (最終更新日時 2011-01-25 02:35:15 更新者 yamazaki)